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最高裁判所第二小法廷 平成元年(あ)17号 決定 1989年9月26日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人田中泰雄、同藤田正隆の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

所論にかんがみ、職権により検討する。

原判決の認定する罪となるべき事実は、「被告人は、昭和六一年一月一六日午後八時四八分ころ、大阪府八尾市<住所略>安中老人福祉センター前路上において、被告人の吐いたつばが折から交通整理等の職務に当たっていた大阪府八尾警察署所属のA(当時二五歳)にかかったことから、故意につばを吐きかけたものと認識した同巡査が、被告人に何らかの罪を犯そうとしている者として職務質問するため、その胸元をつかみ歩道上に押し上げようとしたのに対し、『じゃかましいわい』『放せや』などと叫びながら、同巡査の左膝を数回足蹴にし、更に顔面に殴りかかるなどの暴行を加え、もって同巡査の右職務質問の職務の執行を妨害したものである。」というのである。原判決は、右認定の理由として、「同巡査の証言する当時の状況を考慮すると、被告人が故意につばを吐きかけてきたと認識した藤田巡査は、更に自己に向かって暴行あるいは公務執行妨害等の犯罪行為に出るのではないかと考えて、被告人に質問するため、『なにをする』と言いながら、その胸元をつかみ歩道上に押し上げたものと推認するのが相当であり、そうした行為は警察官として警察官職務執行法二条により当然認められる職務の執行と解されるのである。」と判示している。当時の相互の距離関係等の具体的な状況を考えれば、通行人から突然つばを吐きかけられた者としては、一般私人の立場であっても、その理由を問い質すのは当然であって、まして前記のような職務に従事していた制服の警察官に対してかかる行為に出た以上、同警察官としては何らかの意図で更に暴行あるいは公務執行妨害等の犯罪行為に出るのではないかと考えることは無理からぬところである。そうであれば、同警察官として被告人に対し職務質問を行うことができることは当然であり、そのために右の程度の行動をとることは、職務質問に付随する有形力の行使として当然許されるというべきである。したがって、原判決の右判断は正当である。

よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、主文のとおり決定する。

この決定は、裁判官島谷六郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官島谷六郎の反対意見は、つぎのとおりである。

本件は、被告人に故意につばを吐きかけられたと認識した警察官が、被告人の胸元をつかんで歩道上に押し上げようとしたため、被告人が警察官の左膝を数回足蹴にし、さらに顔面に殴りかかるなどの暴行を加えたという事案であるが、これが警察官の公務執行を妨害する行為にあたるか否か、疑問をもたざるをえない。

被告人が警察官に対して「故意に」つばを吐きかけたものか、あるいは被告人の吐いたつばが偶然警察官の着衣にかかったものか、疑問がないわけではないが、それはしばらく措くとして、原審の認定によれば、「故意につばを吐きかけたものと認識した」警察官が、「被告人に何らかの罪を犯そうとしている者として職務質問するため、その胸元をつかみ歩道上に押し上げようとした」というのである。警察官職務執行法二条一項には、警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者に対して、質問することができることと定められているが、本件の場合同条同項の要件を具備しているか否か、かならずしも明らかではない。しかし、仮りにその要件を具備しているものとしても、原審の認定によれば、警察官は、被告人につばを吐きかけられたと認識して、「なにをする」と言いながら、その胸元をつかみ歩道上に押し上げた、というのであり、「なにをする」という言葉が示すように、これは被告人につばを吐きかけられたと認識した警察官の瞬間的な反応であるに過ぎず、職務質問のための公務の執行であると評価することができるか否か疑問を抱かざるをえない。もし職務質問をしようというのであれば、警察官としては、被告人に対し、端的に質問すればよいのであって、質問をしないで、いきなり被告人の胸元をつかむというのは、職務質問として適法な行為ではあるまい。なるほど、前記法条には、「停止させて」質問することができると定められているが、原判決及び訴訟記録からは、被告人がその場から逃げ出そうとしたような様子は全く窺うことができないのであって、警察官として、職務質問のために被告人の胸元をつかむという行動に出る必要はなかったはずであり、違法な行為であるといわざるをえない。被告人は、これに対し、「じゃかましいわい」「放せや」などと叫びながら、警察官の左膝を数回足蹴にし、更に顔面に殴りかかるなどの暴行を加えた、というのであるが、これは警察官にいきなり胸元をつかまれたことに対する被告人の反発撥的な行動であるとみるべきものである。

つばを吐きかけられたと認識した警察官としては、いささか激することがあったとしても、本件のような性急な行動はとるべきでないのであって、警察官の行為は適法な職務執行であるということはできず、適法な職務行為でない以上、被告人には公務執行妨害罪は成立しないと思料する。

よって、原判決には法令の解釈適用を誤った違法があり、その違法は判決に影響を及ぼし、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

(裁判長裁判官 藤島 昭 裁判官 牧 圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 香川保一)

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